こんばんは~(^-^)ノ
前回の記事に、るるさんからコメントいただきまして、
記事内でふれた、私の行ったことのあるシカゴの「コミスキーパーク」が、
当時すでに「新・コミスキーパーク(現USセルラーフィールド)」だったと知りました。
当時も予備知識のないままホストファミリーに連れていってもらったのですが、
旧コミスキーパークは、私がアメリカ留学するよりももっと前に、
取り壊されていたんですね。
るるさん、調べるきっかけをくださってありがとうございます!
コミスキーパークで観戦したときは3月か4月頃だった気がしますが、
とても寒くて、1枚の厚手の毛布を3人でシェアしてくるまりながら
(ホストファーザー、同じ家にいた留学生で1つ年上のポーランド男子、私)
観戦した覚えがあります。
私は、アメリカの高校ではバンド(日本でいう合奏団?)の授業を取っていて、
トランペットをやっていたので、フットボールやバスケットボールの試合があるたび
ペップバンド(応援の音楽を吹く)に参加、観戦も必須だったんですが…
その年はブリザード(大寒波)の年で、
厚手の毛布を体に巻いて、寒さに震えながら観戦、
というのはよく繰り返された光景でした。(フットボールゲームは野外なので。)
コミスキーパークでの野球観戦のときは、私を除く女たちは、
シカゴの街中でショッピングをしていたんだけど、
なぜか私だけはそこの家のお父さんに野球好きと思われていて
当然のように“野球場行き・男チーム”に加えられていたんだよなぁ。(^▽^;)
球場の大型ビジョンの画面に観覧中の私たちの姿が映されて、
みんなで「おおー!」と、手を振った思い出があります。
試合内容は、全然覚えてない(笑)
☆☆☆
さて、昨夜は満月でしたね~☆
輝く満月の周りには散り散りの雲
過去世についてもふれた記事◆「過去世と食の好み、よもやま話」に書いた、
私が小学3年生のときに感動して涙した、百人一首の中の歌とは、
「秋風に たなびく雲の たえ間より
もれ出づる月の かげのさやけさ」
という一句です。
情景が鮮やかに浮かぶのと、言葉のうつくしさとで、
何とも言えず胸がいっぱいになり、はらはらと涙がこぼれました。
そのときは、はじめて「百人一首を遊ぶ」ための授業だったのですが
(つまり、読まれた札を取って競うゲームの、あれですね☆
この小学校は、年に1回、百人一首大会を作ったのです。)
和気あいあいと遊んでいるクラスの中で、誰にも驚かれないように(笑)
感動の涙を流しつつあわてて横を向いたのを覚えています。
この歌をきっかけに、私は百人一首の歌を夢中で読み始めました。
そして、そこに載せられたたくさんの歌に感動し、意味を知る中で、
当時の背景や、詠み手の心情にも思いを馳せ、
ああ、いつの時代も人間は一緒なんだなぁ…
と、いにしえの人たちを身近に感じたのを覚えています。
長年、古文からは遠ざかっていましたが、
今日はふと思い立って、ひさびさに「更級日記」を読み返していました。
私が持っているのはこちらの本なんだけど、もう絶版かしら。↓
「対訳古典シリーズ 更級日記 旺文社」
現在売っている更級日記を他に探してみたら、
こちらが原文も現代語訳も入っているそうなので、私は未読ですが載せてみます。↓
光源氏の物語で有名な大作「源氏物語」や、
現代でいうならば見事なエッセイ!の「枕草子」よりも、
私はこちらの作品がなんだか好きです。
作者の心情が伝わってくるし…
等身大の、当時のひとりの人間のあり方が、見えるような気がして。
そして今日の読み返しで気づいたんですけど、
作者は今でいう千葉県でお育ちだったんですねぇ。私と一緒だ。
先に紹介した、私が持っている方の本では、
当時の地図が載っているので、どこが何と呼ばれていたかがわかりやすいです。
東京は…当時は「武蔵」ね。
都は京だったわけだから、東京は、ふつーのいち地方、田舎だったんだろうなぁ。
地域を区切る境界の「線」だって、地名やイメージだって、
人が決めたものなんだなぁって、はっとさせられます。
だけど地名には、ちゃんとその頃からの名残もあって、
そこに気づくと感慨ひとしおですね。
そして、この頃(平安時代)の人々って、男女問わずよく泣きますね。
この、よく泣く、ということについて、
「それは、当時の食事では、○○という栄養素が欠乏していたためだと思う…」
などと独自の解説をしてくれた古文の先生が昔、いましたが(笑)
私が思うに、そういう情緒で生きていたからだと思うんですよ。
今の人間と、感覚の使い方が違っているのです。
古文を読んでいると、昔は、「見える世界と見えない世界」
もっと当たり前に融合していたんだなぁって、感じます。
たとえば、
「もののけ」も、今では「目に見えない」ことになっている色々な存在も、
もっとふつうに姿をあらわしていた(人に認識されていた)と思いますね。
それは単なる伝承じゃないんですよ。
要するに、
人々が今のように「物質オンリー」にフォーカスした周波数で生きていないので、
そういった存在たちも「顕現」しやすかったのだと思います。
そういう(人々の)波長の中でしたら、姿をあらわすのが簡単なんです。
実際、私は夢の中で平安時代らしき映像を見たことがあり、
そのときに、
「うわー!鬼や妖怪って、当時は本当に姿をあらわして活動してたんだ!」
って、びっくりしました。
(ちなみに鬼や妖怪は、「悪の存在」ではないですよ~。)
更級日記を読んでいても、
陰陽道や仏教にのっとった決まりやしきたりが色々ありすぎて、
うわー、面倒くさそうだなぁ…
と私などは思いますが、それだけそういう目に見えない側面を、
「リアル」に捉えていたということがわかりますね。
何がリアルかという基準は、そこに生きている人たちが決めます。
これを覚えておくと、「現実」を見るのに役立ちますよ!
あと、著者がその時代の人として、そういった価値観を当然に採用しつつも、
ほんとうはこうしなくちゃいけないと思うんだけど、興味が無くてしなかった
とか、
熱心におつとめ(勤行)した方がいいんだろうけど、私は全然やる気がなかった
というような旨が正直に綴られている箇所もあり、
時代は違ってもやはり人間…と、親しみがわきます(笑)
また、「夢」もとても大切にしていたようですね。
更級日記にも夢の描写が、けっこう出てきます。
あの世とこの世をつなぐゲートウェイ
としての夢の役割、ちゃんとわかっていたのでしょうね。
長い歴史を振り返ってみれば、現代のように、
こんなにも「目に見えるモノ」に正当性を置いている時代って、
案外少ないかも…(かえって希少価値)と、思います☆
興味のある方は「更級日記」、
あるいは気が向く古文を何でもいいから、ぜひ読んでみてください♪
「今」という時代が、別な目で眺められますよ☆
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