今日のテーマは、「違う意見を快く言える?」です。
日本の文化では、あまり、「違う意見を尊重する」ということが、
得意でないように思います。
これは、「日本の」と言ってしまうと本当は、
細かくみれば個人レベルでの色んな違いがありますから、
正しくはないのですが、
記事ではとりあえず、こんな切り口からお話をします。
違う意見を、ケンカや対立と受け止めるのではなく、
「どれも意義があること」として耳を傾けるような、
そんな性質はあまり根付いていないように感じるのです。
たとえば、
誰かに対して違う意見を言うのは「失礼」なこと、
それは相手の気分を害することになる…
という風に感じて躊躇してしまい、
自分の考えを心にしまう癖のある方もいらっしゃるのでは?
なるべく波風立たないように、自分の意見を控え、表現せず、
その場の空気や相手に合わせるようにする。
このことが、どちらかというと日本では、
「良いこと」として受け止められる傾向にあります。
でも、その前提となる思考、
「違う意見を言ったら、波風が立つ」と考えること自体が、
すでに日本的観念のあらわれだなと思うんですよね。
なぜなら、中には、
あなたの意見は?あなたの考えはどう?
と、積極的に異なる意見を聞こうとする文化もあって、
そういった常識の下では、
違う意見を表現することは「波風を立てること」にはならず、
「交流を深めること」にもなります。
そのように、先に私たちの「前提(信じている観念)」があるのですね。
様々な文化、常識、風習、それらを知れば知るほど、
そうか、私の育った文化ではこれが“良いこと”とされていたけど、
他の文化では、違うところに価値が置かれていて、
必ずしも、「どれかが正しい」わけではないんだな!
と、気づくことができますね。
ところで、
これは文化間の違いでも、個人間でも起きることですが、
自分の常識やルールを引っ提げて相手に向かってしまうと、
その基準から相手を見つめるので、
「失礼なやつ!」
「なんて常識のない人なのかしら?」
と判断してしまうことも、
実は、相手には異なる常識やルールがあって、
その内容を互いに知らないだけ、ということはよくあります。
そのときに、内容をせっかくシェアしあっても、
「どっちが“正しい”か!」
という観点で争いを始めてしまうことも、またあります。
「異なる意見を持つ相手は、自分を否定している」とか、
「攻撃している」と信じていると、そうなってしまいます。
あるいは、先の述べたような日本的とも言える“観念”が強いと、
「相手に合わせない」人がいるだけでムッとするということもあるでしょう。
それから、
「別な意見を、別な意見のままで認められず、どちらかを変えようとする」
というケースもあります。
なぜ、そこで、他者と自分とを同じにする必要があるの!?
…と、冷静に考えれば不思議な現象なのですが、
「自分と同じになってもらいたい」
という思いを持っている人は、決して少なくないと思います。
この思いの動機を掘り下げ、
共感がほしいのか…
同じ意見を持つ人が増えると、心強く感じるのか…
他者の支持によって「正しさ」を確認し、安心したいのか…
そもそも「他者を(あるいは自分を)変えようとしてまで」、
それを必要としているのは、なぜなのか。
それをしっかり見つめると、興味深い発見がありますよ。
逆説的ですが、私たちは「人に影響を与えることを恐れるし」、
「人に影響を与えないことも恐れる」ということをします。
私がこう言ったら、相手の気分を害するのでは…などの思いは、
人に影響を与えることを想定して恐れています。
でも、共感してほしいとか、相手にも同じ思いを持ってほしい…
という場合には、人に影響を与えられないことを恐れています。
どちらにしても、
「人がどう思うか」と自分とを結び付けているところが共通しています。
「私はこう思う、あなたはそう思う、それでOK」
「共感されても、されなくても、
肯定されても、否定されても、
私の内面は変わらない(自分でそうしようと思わない限りは)」
本来あるこの「土台」に気づき、その立ち位置から眺めたとき、
あなたの人生はきっと、もっとのびのびと楽しくなりますよ。
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