今回のお話は、「感情の形を取るエネルギー」。
このトピックは、12月15日(土)の講座「内的静寂から生きる」でお話しする、「内的静寂にまつわる誤解」に関連しています。
◆「『内的静寂から生きる』12月の講座のご案内」(お申込み受付は12月10日まで)
感情は、どの感情も「方向性を持つエネルギー」と言うことができますが、その「中身」次第で、色々な感情があると考えることが当たり前になっています。
たとえば、好きという感情と、嫌いあるいは憎しみという感情とでは、まったく違うものと受け止められるというように。
でも、エネルギー自体にあらかじめ意味が付いているわけではないので、どんな感情も他の感情に変換し得るものなんです。
あなたが怒りや憎しみの感情から何か・誰かに執着していると思おうが、好きすぎて何か・誰かから離れられないと思おうが、いずれにしても、注がれているのは十分に大きな「エネルギー」ですよね。
あなたがどんな風にエネルギーに「意味付け」するかで、感情の種類、すなわち、体験が変わります。
何にどれだけエネルギーを注いでいるか
欲望や願望もまたエネルギーであり、先述の通り、方向性を持つエネルギーという意味では感情です。
それを満たす方向へ自然と動くものですが、そこにあなたの観念が関わることで、たやすく叶うものと、叶わないものが「現実」にあるように見えます。
あなたが、野菜を手に入れることはたやすい(買ってもいいし、もらってもいいし、自分で育ててもいいし、物々交換してもいい……など)と信じていれば、野菜を手に入れるでしょう。
同じように、あるものは手に入れることが難しいと信じていれば、それを手に入れるために必要だと信じている難しさの経験を「自ら作る」というわけです。
中には複数の人たちで共有される「集合的な観念」もありますが、集合的な観念は、あなた個人の決意に影響しません。
集合的な観念は、文化、社会、国や民族、地域、家族、会社、様々な集団によって作られます。
欲望や願望を含め、どんな感情もそれ自体に善悪はありません。
感情に含まれているパワーの大きさは、あなたがそこにどれだけのエネルギーを注いでいるかで決まります。
うわべに見えている感情の正体
感情は、うわべに惑わされずによく見ると、全く別の「声」を持っていることがあります。
ルーツはひとつなのに、まるで地上で枝葉を広げて細分化しているように、根本とは別のもののように見えていることがあるのです。
根本を見つめるなら、常に、あなたが自分をどう見ているか、に行き当たります。
思い込みの自分、人生を通して着込んできた「私はこういうものだ」という衣を「私」と見ているのか。
それとも、根本の自分、不変の「存在」である「私」を見ているのか。
アイデンティティーの思い違いによって、私たちは多数の観念と、感情を生みます。
指揮している者と、常に流れているエネルギー
あなたは、あなた自身のエネルギーの指揮を取り、オーケストラの演奏のように、様々な感情という音色を鳴らします。
これはとても面白い遊びですけれども、
この感情はいい、悪い、これは出してはいけない、これは持つべきではない、こういう風に感じなくては……
そのように「自身に課した物差し(ルールや理想などの観念)」に合わせて操作するとき、実際のところ、完璧な指揮の邪魔をしているのです。
流れるものを、流れるままに任せられるときにこそ、あなたは大きな視点に基づくハーモニーを奏でています。
そのハーモニーの指揮者は、「ここで得た知識や経験」ではありません。
地上からは見えていない部分をも認識している、あなた自身の内なる叡知なのです。
どんなときでも、あなたがあなた自身のエネルギーを扱っています。
コントロールがきかないとか、どうにもならないと思うときにも、その状態を作り出しているのは自分です。
マトリョーシカのように、自身の作る制限の中に、どんどん小さく小さく自己を閉じ込め続ける遊びはやめて、限界を持たずに全体を見ている自分に戻りましょう。
それが、あなただからです。
すると、エネルギーはただのエネルギーとなり、万物を生かしているのと同じ一つの力であり、どのように意味付けするかに関わらず、あなたに常時、豊かに力強く流れているものだとわかるのです。
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