「目覚め」のお話に興味を持ったり、おのずとその道を歩んできたりして、
エゴの「錯覚」が本当に錯覚だったんだとわかってしまうと……
一時的に、文字通り「幻滅」、
つまりこの世や人生に対する幻(まぼろし)が滅して、空白になったような気持ちがするかもしれません。
全員がではありませんが、通過地点で、ある種の無気力になることや、虚ろになることがあり得ます。
ですから、今回はこんな話をします。
「安心して、その先があるから。」
思い描く通りのご褒美、欲しいと主張している形で報われることを期待するエゴ
たとえばです。もし、あなたの中に、
仕事や、家庭、人間関係、自身の体(健康状態含む)がこんな形になったら……、
経済的にこれくらい豊かになったら……、
相思相愛のパートナーができたら……、
自分は満たされるだろう、幸せになるだろう、成功したと思えるだろう、などの理想があったとします。
すると、「目覚め」の目的が、それらの形を手に入れるために置かれている場合があります。
目覚めは、それら特定の理想を得る「手段」であると思うので、熱心に取り組むのです。
ところが、あなたが真に目覚めれば目覚めるほど、
それらは関係ない(まったくもって、ゴールではない)
ということに気づいてしまいます。
逆に言えば、そうした外的な形を「得るために」、自分の心の内を見たり、観念を変えたりしている間は、まだ肝心なところが腑に落ちていないんです。
こちらの記事で表した段階で説明すると、2段階目ではまだ、そういう状態が続き得ます。
◆「目覚め(解除)の段階と、創造のスタートライン」
途中までは、Bait(釣り餌)として、それでもいいでしょうね。
一喜一憂しつつも、いつか叶う「理想」を夢見ているので、「エゴが」希望にあふれていられる状態をキープしているわけです。
このときのあなたの中のエゴは、けっこう色々なことに協力的かもしれませんよ。
スピリチュアルをテーマに、エゴと同盟を組める状態。
留意点としては、その姿勢のままでは「試練」が訪れるということです。
あなたのひそかに(あるいははっきりと)思い描く理想の形が、どんなに熱心に「目覚めの道」に邁進しても、そうし続けていても、叶わないとき。
むしろ、逆境と思えるような出来事があったり、これまでよりももっと悪いんじゃないかと思うような、望ましくない状況に直面したとき。
スピリチュアル、くそくらえ!
目覚めようだなんて、熱心に取り組んでいた、私が馬鹿だった!
ちっとも、「現実」は良くなっていないじゃない。
と、猛烈に背を向ける可能性がある、ということです。
「欲しいものが得られなかった」という理由で一気に、後戻りする余地があるのです。
こういったエゴの反応、錯誤から抜け切らないと、第2段階目から第3段階目へは、進めないんですよ。
私は講座でたまに、「うわべのワクワクや、キラキラ!はあきらめて」と言うことがありますが、それはこの地点で理想の「形」に執着し、歩みを止めてほしくないから言っているのです。
あきらめたら一時的に、追い求めていたものが無くなって、面白くなくなるでしょうけれども。
(そしてまた最終的には、本人が「これじゃないんだ!」とうんざりして悟り、自ら旧来の希求を手放すまで、同じ試みが続くでしょう。)
第2段階ではまだ、そういった「形」を得るために、それを餌に、自身の内面の癒しにいそしんだり、観念を見詰めて変容させたりができるんです。
でも、第3段階では、そういった「馬ニンジン方式」は一切通用しない世界です。
なぜなら、「自分がこんなに頑張ったから褒美がもらえる」形式の、この世的な理屈から抜けた後だからです。
創造者としての自然な目線と態度
あなたは創造者です。
あなたの現実は自然な結果であり、決して偶発的な出来事ではありません。
これを徹底して理解していれば、ご褒美や報われること等への学習した「期待」の観念を手放すことができます。
わかりますか?
方向違いの期待をしているとき、あなたは自分以外の「何かほかの力による裁量」を望んでいるんですよ。
言い換えると、あなたのアイデンティティーを混同している、「私とは何か」を正しく認識できていないということです。
創造者であるということは、
あなたにどんなうれしい出来事が起ころうと、その逆と思える出来事が起ころうと、
全てあなたの内から生じた「結果」であることに変わりなく、自身の自然な産物であると、不動の心で眺めているのです。
真実に戻り始めると、あなたの中の「エゴ」は憂鬱です。
これまで採用していた方程式は無効になり、夢見ていた幸せの形は、自身に幸せをもたらす魔法のアイテムではないとわかり、
その一方で、あなたが真の自己へ信頼を置き切ってもいないので、
これまでなじんできた集合意識に同調できなくなった余白が埋められず、希望がしぼみ、
あーあ、この世ってつまんない
寿命まで何して過ごせばいいんだか
という虚無状態が生まれる可能性があるのです。
安心して、その先があるから。
でも、思い出してください。
あなたが本来の自己、「真の自己」の息吹にほんの少しでもふれたなら、
あなたはどうしても元気づけられるに違いないし、
よろこびが湧いてくるし、
生きることが楽しくなるでしょう。
つまり、あなたが「この人生もういいわ」みたいな絶望的な気持ちになっているときには、真の自己から離れているんですよ。
あなたがまだ生きているということは、スピリットであるあなたは、そんな風に思っていないんです。
生きるだけの情熱を持っているんです。
その情熱を覆って、見えなくしているのはあなたです。
自分自身との関係が分裂していて、一致していないんです。
先月のオンライン講座「エゴの声から離れ、あなたを生きる方法」の中でお話ししましたが、
☆該当講座のレポート記事はこちら
◆「エゴの声から離れ、あなたを生きる方法(オンライン講座)レポート」
あなたが個としてこの世界を見ているという、フィルター(装置そのもの)をすっかり無くしてしまうことが「目覚め」なのではありません。
そのフィルターを自分が道具として使っている者であると自覚していて、ヴァーチャルの自己と世界を扱えることが目覚めです。
あなたがヴァーチャル・ワールドのクリエイターなら、その遊び場を、自身の表現として活用し、楽しんでいることを知っているでしょう。
そんな活力、生命力が、目覚めているあなたにはあります。
目覚めに向かっていったら、色々なことが面白くなくなった。
エゴから離れてみたら、次々と興が覚めてきて、希望が持てなくなった。
この世が退屈だ。
そんな通過儀礼に差しかかっても、安心してください。
その先があるから。
そこで歩みを止めないでください。
そのときあなたはまだ、スピリットとしての自己と、エゴと一体化した自己との狭間にいます。
エゴはバリバリ抵抗しています。
あなたは、二つの世界を生きることはできません。
どちらもを「本物」とすることはできないのです。
同じ行動をしていても
この意味で、同じ「行動」をしていても、同様の「形」をとっていても、目覚めた人と、そうでない人では、その内実が全く違っています。
どんな心で、どんなエネルギーで、どんな動機で、あることをしているか。
それを、見かけ上の形や様子が共通だからといって「区別できない」ことが可能なのが、人間の信じている物質的世界です。
霊的な視点からは、そういった混同はありません。
心の内側、エネルギーが明らかな世界では、それぞれは別物だからです。
ですから、あなたの目覚めの度合いが進んだ後、
一見、以前とよく似たことをしている
ということはあり得ます。
あたかも、原点に戻ったかのように。
けれども、あなたの中身は全く違っているでしょう。
あなたの内にある「よろこび」や「活力」こそが、その違いを示しているのです。
★スピリチュアルカウンセリングその他メニュー★
★7月27日(土)講座「時間と空間はあなたの中に!」★
お申込み受付中です。